琉球舞踊 柳によせて|琉球舞踊と古典音楽の会⦅髙井賢太郎⦆

髙井賢太郎

自然の摂理や物事の本質を歌い踊る、琉球舞踊 柳。いわば、”当たり前”を歌っているこの踊りは、

失ってから気づくような、当たり前の尊さと美しさ

を教えてくる。



琉球舞踊 柳との出会いは、いつだったのか。はっきりとは思い出せない。

琉歌の意味もわからなかった頃。流れてくる音楽は、ただ長く感じた。
「あー」とか「うー」とか、言葉にならない音が続くばかりで、何を歌っているのかもわからない。
次々と花や小道具が使われ、華やかな踊りである。ただ、それだけの印象だった。

そんな私がこの踊りに心惹かれたのは、琉歌の意味を知ってからだった。

柳は緑。花は紅。人は、ただ情け。梅は匂い。

自然の摂理を歌い、物事の本質を歌う。

柳は、緑色だ。緑が美しく青々し、緑色であるからこそ柳の枝なのである。
花とは、つまり牡丹の花。その昔、大自然の中で真っ赤に咲き誇る牡丹を見た人々は、その鮮やかさに目を奪われたことだろう。

古くからその香りで、人々を魅了してきた梅の花。人工的な香料もフレグランスもなかった時代。ふわりと漂い、人々を心を癒したことだろう。


そして、人は

「情け」だと歌うのだ。

辞書を引けば、「人間味のある心」「他人を思いやる心」とある。
それは、単なる感情ではなく、行動として現れるものだ。情けをかけられる、情けを行動にできるのが私たち人の美しさであり、魅力であり、本質なのだろう。

そんな当たり前を、歌い舞い踊るのがこの柳だ。

最近、私は、その「当たり前」のありがたさを、しみじみと感じる。

健康であること。ご飯を食べられること。
体調を崩し、高熱で苦しんだ後に迎えた普段通りの朝が、どれほど嬉しかったことか。

友達や仲間。家族や恋人。当たり前のようにそばにいる人々。
みんな、空気のように当然のごとくそこにいてくれる。

蛇口をひねれば出てくる水も、いつもそこにあって私を生かす。

ふだんは意識することすらない。

 だからこそ、失って気づくのが、当たり前の幸せだ。

琉球舞踊《柳》は、未熟な私に「当たり前の大切さ」を教えてくれる。

当たり前のありがたさをかみしめ、当たり前の美しさに想いを寄せて、《柳》を舞い踊る。

すべてのリュウカツチュウの人たちとの当たり前じゃない出逢いと喜びに感謝して。ご来場お待ちしております。

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記事:リュウカツチュウ髙井賢太郎