かぎやで風節がおもしろい。歌詞をみて思うこと⦅棚原健太⦆

かぎやで風節と書いて、「かじゃでぃふうぶし」と読む。

節名の由来はよくわかっていないが、琉球古典音楽のなかではいわずと知れた名曲だ。

別名「御前風(ぐじんふう)」とも呼ばれ、かつては琉球国王の御前をはじめ、首里城(宮中)や国賓の饗応など、演奏の場は限定的だったといわれる。

時代は流れ、いまではたくさんの人に親しまれている。特に沖縄本島に住めば、その存在を身近に感じられるだろう。結婚披露宴や正月、芸能公演の幕開けなど、物事の序盤に演奏されることが慣例だ。

ちなみに琉球古典音楽の工工四(楽譜)の最初のページはかぎやで風節だ(まえがき等を除いた場合)。そのため、私の肌感では”初めに習う曲”という認識がある程度定着しているように思う。

私自身、これまで数多くの曲を弾いてきたが、この曲にかぎっては圧倒的に演奏する機会が多い。私のなかで三線で弾いた曲ランキング一位。もちろん最多記録を更新中。それでも飽きない。

「テーン、トゥン、テーン、トゥン…」と、誇らしげな歌持ち(前奏)が素晴らしくイイ。

威風堂々とした曲想は、カチャーシー曲とはまたひと味違った明るさを感じさせてくれる。

さて、あらためて歌詞をみてみる。

今日の誇らしゃや なをにぎやなたてる つぼで居る花の 露行逢ごと
(今日の喜びを何にたとえよう つぼみの花が露と出会ったようだ)

つぼみと露が出会い、やがて花開く…その刹那に宿る美しさを「喜び」の比喩に用いている。なんともクールなたとえだ。生命力やみずみずしさ、物事の吉兆も予期させる。先人たちの繊細で深みのある美意識を感じた。

この間、おもしろい気づきがあった。
先日、茶道の本をパラパラと読み流していたときのこと。「花は野にあるように」という千利休の教えを説いたトピックに目がとまった。

茶室に生ける茶花(ちゃばな)は、原則、本来の風姿をいかすという内容。これを「投げ入れ」と呼ぶらしい。あたかも山野から摘んできたようなありのままの佇まいを理想とする、いはば「侘び」の表現のひとつのようだ。茶花は華美なものではなく、むしろつぼみや開きかけた花を積極的に用いると書かれていた。

妙に共感した。

かぎやで風節の歌詞に近い”何か”を感じられずにはいられなかった。歌詞と茶花。それぞれ離れた地で育まれた文化だが、いずれも“つぼみ“からインスピレーションを受けた表現、そこにひそむ美しさを重んじる心がうかがえる。

先人たちの美的感覚はどこからやってくるのだろう…その鋭い審美眼に敬意を表したい。現代社会に生きる私も、このような感受性を養いたいものだ…


さて、私ごとながら舞台でかぎやで風節を演奏する機会を得た。来月、国立劇場おきなわで開催される「新進男性舞踊家の会」にて、琉球舞踊「かぎやで風」ほか、いくつかの演目の舞踊地謡を務める。

最近はとくにかぎやで風節の稽古が楽しい。何度も弾いてきたはずだが、飽きるどころかその沼にハマっている。名曲といわれるゆえんをなんとなく実感しているところだ。

舞台では舞踊はもちろん、生演奏にも耳を傾けていただきたい。

記事:リュウカツチュウ 棚原健太