「琉球舞踊の魅力は?」とふと聞かれることがある。非常にシンプルだけど難しい。琉球舞踊が多くの人を魅了する理由はたくさんある。そして人の数だけ夢中にさせる理由があるのだろうと思う。
今回は、琉球舞踊の魅力というぼんやりとした壮大な問いに全力で考えてみよう。
琉球舞踊はいくつかの種類に分類される。それぞれ育まれた時代、表現や技法、求められる美学も違う。さらに個々の演目がもつ魅力も違う。
ジャンルとして…古典舞踊と雑踊の魅力は違うし、演目としての魅力、例えば、諸屯とかしかけの魅力は違う。
そして、修練する過程での”心の学び”や”教え”もまさしく伝統芸能である琉球舞踊の魅力でもあるが、それらはどちらかというと”伝統芸能の魅力”といった方が腑に落ちる自分がいる。
では“個々の作品”や”伝統芸能”の魅力ではなく。”琉球舞踊”の魅力は。
をあえてひと言にするならば…
「 自然をもとめる表現の中に、みえないものを観ようとする心 」だとおもった。
東京に住んでいたころ、日本舞踊をやっていた。例えば、そこでの女形は確実に”女”を表現する必要がある。基本姿勢の立ち姿は、股を閉じ、内股。なで肩で斜にかまえ、ヒトという動物の性”女”像を表現する。
指導言語や言葉にすると
お膝を曲げて、おしとやかに。
お首を曲げ、色気を。
脇を締めて、男性的要素をなくして
といったところだろうか
その点、琉球舞踊の女踊はどうだろう。
基本姿勢の女立ちは股を広げ、つま先を外に跳ねだす。いわゆるガニ股のような立ち姿は、いわゆる”女性的な表現”とは思えない。日本舞踊的な観点からすると、驚愕の女像ではなかろうか…
こぶしが軽く入るか入らないかくらいに脇を自然にあける
波が押して引くように
おもちがのびるように
身体全身が常に自然体で動くように
”稽古”の中で飛び交う言葉をとってみても、求めているものが同じ”女性像”ように感じない。日本舞踊で女性の形いわゆる、女形的に演じることを求められるのに対して、琉球舞踊は自然な体使いや自然をもとめられると感じる。」
その点、もはや琉球舞踊における女踊りは、歌舞伎の女形という言葉とイコールにもならないようにさえ感じる。
ともあれそんな”自然”を求められる琉球舞踊に僕はとてつもなく惹かれたんだ。
そこにある表現は、自然体を理想とした型があるのみ。その、型を体現し、音楽にのせて舞う。あとは着物と道具と音楽が、役者をいわゆる女にも男にも子供にも変身させる。
そんな、表現にはかざらない美しさと魅力を感じるし、どこか県外出身者の僕が思い描く”うちーなーんちゅらしさ”のようなものさえ感じる。あたたかい。
一方、そんな抽象的な表現のデメリットは、非常に読み取りにくいことだろうか。
性別的特徴を表現するわけでもなく、具体的な動作をするわけでもない。目で見てわかるような、劇的な表現とも違う。
分かりやすいか分かりにくいかでいったら、分かりにくいんだと思う。がその分、解釈の自由度もすごく高いんだろう
そんな抽象的な所作が、不思議なことに、具体的に観えてくる瞬間もある。それらは、少しの面や体の角度、音楽や琉歌と整合性がとれたような瞬間、所作のスピードや身体のこなし
本来みえない、みえにくい”それ”がみえた瞬間にとてつもない感動と衝撃で鳥肌が立つ。そんな、みえないものをみようとすることこそが、琉球舞踊の魅力なんだろうと思った。
そして、琉球舞踊の魅力はもう一つある。それはこの伝統をつなぐ人たちだ。琉球舞踊やこの島の歌と踊りをつなぐ人たちの心は豊かであたたかい。それは東京で琉球舞踊を学んでいた僕が沖縄に住んで、この土地で人と触れながら伝統をつなぐ中で感じることだ。詳しくはまたいつか書き綴りたい。
記事:リュウカツチュウ髙井賢太郎