「六段」を弾く、聴く。琉球箏奏者として考えること⦅町田倫士⦆

「六段菅攪(ろくだんすががき)」は今から約300年前に薩摩から来琉したとされる箏の一曲。生田流・山田流箏曲の「六段の調(ろくだんのしらべ)」とは兄弟のような関係で、調弦や拍子のズレはあってもほぼ同一の曲とされている。

「六段」というだけに、「段」とよばれる楽章が六つあって、冒頭のフレーズが曲の進行につれどんどん展開していく。

各段にモチーフがあるわけではなくて、やもすると単なる音の羅列に聴こえてしまうかもしれない。だからこそ歌のない音楽って難しい。それは演奏することも、きっと聴くことも。

例えば表題音楽という音楽があるように、“川のせせらぎを表現した音楽”とか、“陽が沈む海を表現した曲”とか、曲のモチーフがあると、聴く人は与えられたモチーフを自分の想像の中に落とし込むだろう。琉歌の世界もそうで、30音に制約された歌の中に、想像を膨らませる余地、行間を読む楽しさがある。文字として書かれていない余白を楽しむわけだ。

「六段菅攪」はどうだろう。歌詞のない純器楽曲、また曲のモチーフが語られることはほとんどない。言ってみれば真っ白な画用紙。

「六段菅攪」のモチーフって?。表現者として自分はどう演奏するべきなのだろう。月夜の静けさ?武士の剣舞?今回「六段菅攪」を演奏するにあたってとてつもない壁にぶち当たった気がした。

稽古の時や運転中、お風呂や寝る前…。考えても考えてもこれだという答えには至らず。

そうしたモチーフや曲の意味を考えれば考えるほど、そもそもそれを考えること自体、なんだか違っているように感じた。むしろ、そこに物語を求めてしまうと、かえってチープになってしまうのではないか。

演奏しながら沸き起こるのは、師匠との稽古風景。ひとつひとつのフレーズをどう弾くか、爪の当て方や手の運び、音の強弱、左手の音色の操作など。何十回、何百回と稽古した師匠の声が聞こえるような気さえする。

もしかすると「六段菅攪」は自分自身との対話なのかもしれない。ある種の精神統一のような。だからぼくは聴く人に「六段菅攪」の聴き方を求めないことにした。真っ白な原稿用紙に聴く人がその時感じる感情、見える景色を思い描いてくれたらいいような気がする。

僕たちが月を見て、沸き起こる想念が人によってそれぞれ違うように、これだという聴き方はないし、思い思いに聴いてほしい。

歌のない音楽って難しい。それは弾くことも、きっと聴くことも。皆さんがどのように「六段菅攪」を聴くのか僕も気になるところです。

「六段菅攪」と「六段の調」初段の比較演奏 中井智弥さんコラボより。

記事:リュウカツチュウ 町田倫士