一つの問いから逃れられずにいる。
人が文化的に生きることは、社会にとって本当に必要なのだろうか。
三線と出会って17年。
泥臭く、がむしゃらに向き合ってきた。
必要だと信じたい。
けれど本当にそうなのか、わからない。
わからないまま続けている。
これが素直な心境だ。
では逆に、社会が文化的な営みを必要としなくなったき、私たちはどう生きるのだろう。
道路や水道、電気や通信といったインフラは、人が生きるための基盤だ。しかし、どんなに便利で整っていても、文化的な営みを必要としない社会を想像すると、なぜか失望する。
静まり返った街。
劇場も映画館もオンデマンド配信もない。
ただ生活基盤を維持するためだけに働く。
「生きる」には、何ら支障はない。けれど、誰がそんな社会で「生きたい」と思うだろうか。
「生きる」と「生きたい」。
芸術文化――すなわち“文化的な営み”は、その後者にそっと灯りをともすものだと思う。言葉にしてしまうと仰々しいのだが、その灯(ともしび)は、日常のささやかな感覚の中にある。
気づけば口ずさんでいる歌。
映画のワンシーンに涙がこぼれる瞬間。
踊りや音色に心が動く、内なる感覚。

誰の中にも自然と息づいている灯。
そしてそれは、80年前の沖縄で実際に、人々の心を照らした。
社会が破綻した戦後。
焦土のなか、組踊や琉球舞踊が演じられた。
「浜千鳥」に境遇を重ね、涙した人がいた。
役者たちは“公務員”として各地を巡演し、人々の心に寄り添った。
あの時、人々に必要だったのは、生きるための環境だけではない。「生きたい」と思える灯。その一つが、芸能だった。
なくても死にはしない。でも、なければ「生きたい」という灯は消える。その矛盾のような真実を、沖縄の戦後復興の歴史が証明した。
芸能が人々を救ったというより、
人々が芸能によって救われた。
と、私は解釈する。
だからこそ今回の公演で、先人がつないできた歌と踊りを、そのまま舞台に置く。そこに少しだけ言葉を添え、構成を編む。
そうか。
私もただ三線に惹かれ、ときに救われてきた自分がいる。
「社会に必要だから続けている」のではない。「生きていくうえでの私にとって必要」だから手放せない。
人が文化的に生きることは、本来そういう“個の必然”から始まる営みなのかも。一人ひとりの必然が積み重なり、やがて社会にとっても必要なもの(みえないインフラ)へと育っていく。
必然が重なり合うとき。人の心には共通の感覚が息づいていると気づく。立場や境遇の違い越えて、相手を理解し、受け止め、尊重する思いが芽生える。その連なりの先に、平和は少しずつ形を帯びていくのだろう。
依然、逃れられない問いにまだ完璧な答えは出せていない。けれど、この公演と向き合う過程で、確かに感じられたものがある。
12月27日、豊岡・出石永楽館にて。
ご来場お待ちしております。

記事:棚原健太(リュウカツチュウ)
⦅ 公演概要 ⦆
戦争で多くを失った沖縄。途方もない喪失の中で、人々を支えたのが歌と踊りでした。役者たちは「公務員」として県内を巡り、芸能を届けました。本公演では、琉球舞踊と沖縄芝居を通じて沖縄の戦後復興と芸能の歩みをたどります。トークセッションでは、YouTuberリュウカツチュウが兵庫と沖縄のつながりや、芝居小屋文化と芸能の関わりについて語ります。戦後80年、平和への願いを込めて—。
⦅ 日時 ⦆
2025年12月27日(土)
開場:12:30- 開演:13:00-
⦅ 場所 ⦆
出石 永楽館(兵庫県豊岡市出石町柳17-2)
近畿地方最古の芝居小屋、映画「国宝」のロケ地としても話題に。
⦅ 料金 ⦆
観覧無料
⦅ 出演 ⦆
金城真次
廣山えりか
玉城匠
奥平由依
髙井賢太郎
仲嶺夕理彩
入福浜天乃
歌三線 新垣俊道
棚原健太
箏 町田倫士
笛 澤井毎里子
太 鼓 堀川裕貴
沖縄民謡 仲宗根創
喜友名朝樹
ストーリーテラー
井上あすか


