古典音楽 赤田風節によせて|琉球舞踊と古典音楽の会⦅棚原健太⦆

「あかたふうぶし」と読む。

私とこの曲との出会いは、大学時代に古典実技の授業で学んだのがきっかけだ。じつは舞台で歌うのは、来月に迫った「琉球舞踊と古典音楽の会」が初めてとなる。せっかくの機会なので、私なりに「赤田風節」を紐解いてみたい。

曲調は比較的穏やかで、歌出しは「サー・・」というハヤシ詞から始まる。そこから約十秒間、三線の音色はなく歌声のみが響く。古典音楽の中でここまで歌声だけを引き伸ばす曲は稀だ。

歌詞は簡潔ながら深い。

赤田門や つまるとも 恋し見物門や つまてくれるな
(赤田門は閉まっても 恋しい見物門は 閉まってくれるな)

首里城の外郭に位置する「赤田門」、内郭にある「見物門」。この歌を詠んだ人にとって、見物門は特別な意味をもつ場所だったに違いない。

見物門は、国王とその家族、王家に仕える女性たちが住む御内原(うーちばる)の入口にある。いわば首里城の ”大奥 ”へと通ずる門だ。そのため、城内の制約された環境下における恋愛、逢瀬の願望を詠み込んだ歌詞と解釈されている。つまり、この歌が伝えたいのは単なる門の描写ではない。

御内原に住む誰かが、外の世界に想いを馳せているのか。それとも、外の世界にいる人が、門の向こうの誰かを想っているのか…。物理的な「門」という存在が、二人を隔てる障壁の象徴にも思える。「閉まってくれるな」という短い言葉に、どんなドラマが圧縮されているのだろう。想像するだけで、なんだか胸が苦しい。

当然ながら、つねづね相手のことが気になるのが恋の習わしだ。

「今、何をしているのだろうか」
「私のことを思い出してくれているのだろうか」——。

会えない時間が長くなるほど、その想いは募っていく。ときに不安に駆られ、ときに相手が愛おしくてたまらない。「会えない時間が愛を育む」とは、まったくその通りだ。会っている時間と同じくらい、会えない時間も尊く、儚い。

振り返れば、私の青春時代の恋?はなんとも拙いものだった。無論、会えない時間を愛でる余裕はゼロ(皆までいうまい)。

スマホひとつで連絡が取れる時代になったが、それでも会えない時間のもどかしさはつきまとう。通信手段のない昔なら尚更だ。

その普遍を歌う「赤田風節」。名も知れぬ誰かの想いが、この曲とともに今も生き続けている。時代も場所も違えど、私たちの中にある「誰かを想う気持ち」は変わらない。古の琉球で生まれた一曲が、現代に生きる私たちの心に響く理由がそこにある。

幸い、来る横浜公演で独唱の機会を得た。リュウカツの皆さんのリアクションが楽しみだ。良いプレッシャーを感じながら、日々稽古に励んでいる。ぜひ、公演アンケートや毎月1日の定例ライブで感想を教えてください。まだチケットを買っていない方はお早めに。

乞うご期待!!

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リュウカツチュウ:棚原健太